今回の記事では1H NMRスペクトルにおけるカップリングについて解説します。
前回の記事では前段階として化学シフトと共鳴周波数について書きました。
この記事でわかること
- カップリングとは何か
- n+1ルールと分裂パターン(シングレット、ダブレット、トリプレット…)
- カップリング定数 J 値の求め方
それではやっていきましょう!
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カップリングとは何か?――スペクトルの見え方

エタノール (CH3CH2OH) のスペクトルあるやん?教科書で見たら、CH3のプロトンが3本線で、CH2のプロトンが4本線に割れてるって書いてあるんやけど。
良い質問ですね!まさにそれがカップリングの典型的な現れ方です。 もしカップリングという現象がなければ、エタノールのCH3の3つのプロトンは等価なので1本のシグナル、隣のCH2の2つのプロトンも等価なので1本のシグナルとなり、これらは2つの「シングレット(1本線)」として観測されるはずです。
しかし、実際のスペクトル(一般的な条件下で測定されたもの)では、以下のように観測されます。分裂の仕方は隣接するプロトンの数によって決まります。これはn+1ルールなどと呼ばれます。
エタノールの例で見てみよう
エタノール (CH3-CH2-OH) のメチルプロトン (CH3) とメチレンプロトン (CH2) の分裂を見てみましょう。

ちょっと見にくいですが、以下のような割れ方をしています。
- CH3由来のシグナル: トリプレット (triplet, 3本線に分裂)
- CH2由来のシグナル: カルテット (quartet, 4本線に分裂)
n+1 ルールとは?
ある観測しているプロトンに対して、等価な(同じ化学環境にある)隣接プロトンが n 個ある場合、そのプロトンのシグナルは (n+1) 本に分裂するというルールです。分裂した各ピークの強度比は、パスカルの三角形に従います。
- 隣接プロトンが0個 (n=0) → (0+1) = 1本線 (シングレット, s)
- 隣接プロトンが1個 (n=1) → (1+1) = 2本線 (ダブレット, d) 強度比 1:1
- 隣接プロトンが2個 (n=2) → (2+1) = 3本線 (トリプレット, t) 強度比 1:2:1
- 隣接プロトンが3個 (n=3) → (3+1) = 4本線 (カルテット, q) 強度比 1:3:3:1
- 隣接プロトンが4個 (n=4) → (4+1) = 5本線 (クインテット, quint) 強度比 1:4:6:4:1
このように、本来1本のシグナルとして観測されるはずのものが、複数本に分裂する現象、これが現象としての「カップリング」です(正確な定義は後述します)。
では、なぜこのようなカップリングが起こるのでしょうか?
「隣のプロトン」が影響?カップリングの直感的イメージ
シグナルが分裂する原因は、観測しているプロトンの「お隣さん」にあります。
具体的には、観測しているプロトンのごく近傍(通常は2~3結合数離れた位置)に別のプロトンが存在すると、その「隣のプロトン」の核スピンの状態が、観測しているプロトンが感じる局所的な磁場にわずかな影響を与えるのです。
思い出してください。プロトン(¹H)は核スピン (I=1/2) を持ち、外部磁場中ではスピンの向きが磁場に対して平行(αスピン状態、エネルギーが低い)か反平行(βスピン状態、エネルギーが高い)のどちらかになります。そして、αスピンとβスピンの数は、αの方が少しだけ過剰ですが、ほぼ50:50で存在するのでした。

カップリングのメカニズム
ここで、HA-CA-CB-HBという部分構造を考えてみましょう。HAとHBの間には3本の結合があり、このように結合数が3本までならカップリングが観察されます。4本以上だと、例外もありますが、基本的には観察されません。
HA-CA-CB-HBという部分構造において、HAとHBはαスピンかβスピンのどちらかの状態を取っています。HAから見て、HBはお隣さんですので、HBの2つのスピン状態(αとβ)が1:1でHAのエネルギー準位に影響します。つまり、HAにはお隣のHBのスピン状態(α or β)によって2つのエネルギー準位が生じます。これによって、本来のHA共鳴周波数から正の方向、負の方向に少しズレが生じます。
具体的にどんなスピン状態が考えられるかというと、以下の4種類です。
HA(α)-CA-CB-HB(α)
HA(α)-CA-CB-HB(β)
HA(β)-CA-CB-HB(α)
HA(β)-CA-CB-HB(β)
(ここでは、例えば HA(α) は HAがαスピン状態であることを示します。)
以下で原理を詳しく説明しますが、最初はわかりにくければ、観測してる核に隣り合う他の核が存在すると、観測してる核が複数のエネルギー準位をとり、シグナルが分裂する、と理解しておきましょう。
したがって、カップリングとは、あるHAに対し、隣り合うHBがHAの感じる磁場の強さをほんの少しだけ変調し、結果としてHAの共鳴周波数を変化させる現象です。
では、なぜ隣の HBのスピン状態が HAのエネルギー準位に影響を与えるのでしょうか?
この相互作用は、主に化学結合を介して伝わると考えられています。この機構は間接スピン結合などと呼ばれます。
間接スピン結合によるエネルギー準位の分裂
間接スピン結合とは核スピン同士が化学結合を作る電子スピンを介して作用し合う現象です。
HAの共鳴周波数がHBのスピン状態によってどのように変化するか見ていきましょう。
結論を言うと、以下の図のようにHB 原子核のスピンの向き(αかβか)によってHAのαスピンとβスピンのエネルギー準位が変化し、2パターンの共鳴周波数が生じます。これによってNMRのシグナルが2本に分裂します。

もう少し踏み込んだ間接スピン結合の説明
ここは少々複雑ですので、難しいと感じたら「J値とは何か」の部分まで飛ばしてください。
まず、HB 原子核のスピンの向き(αかβか)が、HB と CB の間の結合の電子スピン(原子核ではなく電子です)にわずかな影響を与えます。
例えば、HB がαスピンの場合、HB核に最も近い結合電子はβスピンをとります。これはHB の核スピンとHB に近い結合電子の電子スピンが逆平行の組み合わせが安定化されるからです。
結合電子はパウリの排他原理と「原子核を挟んだ二つの結合電子スピンが平行になる、という原則に従い。以下の図のように2つの状態が生じます。

一方で、HB がβスピンの場合、HB核に最も近い結合電子はαスピンをとります。先ほどと同様に考えると、以下のような2つの状態が生じます。

この結果、元のHAの共鳴周波数よりも2Δ高い値、2Δ低い値で共鳴するようになり、シグナルの位置が2Δだけ高磁場にズレたもの、2Δだけ低磁場にズレたものが出現し、ピークが2つに割れたように見えます。
上のHAとHBのαスピンとβスピンの関係をもう少し簡略化すると以下のようになります。
HAのαスピンとβスピンのエネルギー準位(下図縦軸のEとして定義)が隣接するHBのスピン状態によって変化することがわかります。そして、エネルギー準位がシフトしたことで、エネルギー差に対応する共鳴周波数が変わり、シグナルの位置が2本に割れます。これがカップリングのメカニズムです。

J値とは何か
カップリングによって分裂したHAの高磁場側と低磁場側へのズレはいずれも2Δであるため、2本のピークの中心がもともとの化学シフトの値です。HBのαスピンとβスピンの数はほぼ50:50であるため、分裂した2本のHAのシグナルの強度もほぼ同じです。
J値とは、分裂したシグナルの間の間隔をHzで表した値のことです。
以下にダブレット (doublet, 2本線に分裂)の場合でのJ値の求め方を示します。
J値の計算方法(ダブレットの例)
横軸ppmで示されたスペクトル上でJ値を求めるには以下の手順に従います。
まず 化学シフト差 Δδ(ppm)を測り、装置の 共鳴周波数 ν0(MHz, 例:400 MHz)を掛けて Hz へ換算します。
\[J(\text{Hz}) = \Delta\delta (\text{ppm}) \times \nu_0 (\text{MHz})\]
例:Δδ = 0.012 ppm, ν0=400 MHz ⇒ J = 0.012×400 = 4.8 Hz
ppmの差に装置のMHzの値をかけるだけなので、簡単ですね。
Triplet (t)やQuartet (q)のJ値の出し方は後述します。
なぜJ値が重要か?

わざわざJ値を求めるメリットってなんや?
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先ほどのHAとHBの例だと、HBのシグナルも同様にHAによって2本に割れる。つまり、HAとHBは同じJ値でカップリングしたシグナルとしてスペクトル上に現れるぞ。
そう、互いにカップリングした水素は同じJ値を持ちます。つまり、同じJ値を示したものはカップリングしている(隣接している)とみなすことができるので、構造決定に役立ちます。これがJ値が重要な理由です。
隣接水素が複数個のカップリングとそのJ値(TripletやQuartet)
「HB 原子核のスピンの向き(αかβか)が、HB と CB の間の結合の電子スピンにわずかな影響を与える」という間接スピン結合のメカニズムを思い出してみましょう。
細かいことは省略しますが、隣接プロトンが増えた場合(例えばトリプレットやカルテットが生じる場合)、HAには間接スピン結合の影響が加算的に加わります。
言い換えると、隣接プロトンが増えた場合、増えた分のプロトンのα、βスピンがHAのシグナルの分裂に影響します。以下で詳しく見ていきましょう。
トリプレット(t)
ダブレットのときのHA-CA-CB-HBという部分構造において、以下のようにCBにHB1、HB2という二つのプロトンが結合していた場合を考えましょう。

HB1、HB2の2つの水素がそれぞれα、βのスピン状態をとるので、組み合わせは以下の四種類です。
(HB1, HB2):(α, α)、(α, β)、(β, α)、(β, β)
ダブレットのときのHAのスピンの安定化、不安定化はHBのα、βによって影響されていましたが、これに加えて、トリプレットではHB1、 HB2のスピン状態が(α, α)および(β, β)のときは2倍の影響を及ぼします。そして、(α, β)、(β, α)のときは安定化と不安定化が同時に起こるため、シグナルのズレは相殺され、もとのHAのシグナルの位置から動かないことになります。
したがって、隣接プロトンが2つの場合、シグナルは1:2:1の強度比で3本に割れます。これがトリプレットです。

トリプレットのJ値
J値の求め方はダブレットの場合と同じです。分裂したシグナル群の中の、隣り合うピーク間の間隔を Hz で読み取ります。
下の図にトリプレットのJ値の求め方を示します。3本線のうち、1本目と2本目の間隔、または2本目と3本目の間隔が J値 となります。

例えば、上図のようにスペクトル上でトリプレットのピークが ① 2.012 ppm, ② 2.000 ppm, ③ 1.988 ppm に観測されたとします。 ピーク間隔は 2.012 – 2.000 = 0.012 ppm、または 2.000 – 1.988 = 0.012 ppm です。 装置の共鳴周波数が 400 MHz なら、J値は 0.012×400 = 4.8 Hzですね。
---①−②, ②−③の間隔が異なるときは?---
①, ②, ③の間隔は等しいはずですが、装置の分解能や測定条件によっては誤差が生じることがあります。トリプレットの場合、①と③の間の周波数の差を求めて、2で割る方法だとより正確にJ値を求めることができます(カルテットなどでも同様の方法を使えます)。ここらへんは所属の研究室でやり方が統一されてる場合が多いので、不安な方は研究室の先生や授業担当の先生に確認すると良いと思います。
カルテット (q)
さらにHAの隣接水素が増えてHB1、HB2、HB3になった場合も同様です。異なるエネルギー準位をもたらす組み合わせは以下のようになります。
(HB1, HB2, HB3):(α, α, α)、(α, α, β)、(α, β, β)、(β, β, β)
ここで、(α, α, β)は(α, β, α)と(β, α, α)と等価です。また、(α, β, β)も(β, β, α)と(β, α, β)と等価です。
したがって、強度比は(α, α, α)と(β, β, β)が1なら(α, α, β)と(α, β, β)はそれぞれ3になります。
したがって、隣接プロトンが3つの場合、シグナルは1:3:3:1の強度比で4本に割れます。これがカルテットです。
4本線のうち、隣り合うピークの間隔 (1-2間、2-3間、3-4間のいずれか) が J値 となります。

ちなみに、エタノールだと、CH3 が示すトリプレットの J値 と、CH2 が示すカルテットの J値は、同じ相互作用(CH3とCH2間のカップリング)に由来するため、同じ値になります。これが構造解析の大きな手がかりとなります。
n+1ルールとパスカルの三角形
ここまでの説明を一般化すると「隣接する等価核が n 個あると 1H 信号はn+1 本に割れる」という経験則が得られます。これをわかりやすく可視化したのが以下のパスカルの三角形です。


n+1ルールとパスカルの三角形で、本数と強度比がわかるんやな。J値の測り方も、結局は割れたピークの間隔ってことやね。
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この基本を理解すれば、もっと複雑な分裂パターンも読み解けるようになるぞ。
まとめ
今回の記事では、NMRスペクトルを読み解く上で非常に重要な「カップリング」という現象について、その基本から少し複雑なケースまでを解説してきました。
次回は、より複雑なカップリング(ddやtdなど)についてもお話ししたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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